はるさくら

 朝。ようやく寒くなってきた気温。布団から出るのが億劫になる、11月の始まり。
「な、ん……で……?」
 背中の向こうで、触れるか触れないか、人の温度を感じる。怯えた温度は、自分でもなんでかわからないけど、億劫と思ったことはなかった。
 寒さに負けそうになる体を布団から引きずり出す。怯えた温度がバッと離れる。また、体を縮こませて、涙を流していた。
「……おはよう。大丈夫だよ、心配しないで。」
 最近やっと、この怯えを和らげる方法を覚えてきた。すぐに体を動かさず、目を見てゆっくり話しかける。
 慣れてしまった毎朝の自己紹介を、また繰り返す。
 ――コスモス、見に行こう。
 眠る前の宣言は、やっぱり彼女は覚えていなかった。それでも良いと割り切って、車を少し走らせて、この辺では有名なコスモス畑に到着する。
「わ……すごい……!」
 ピンクや白が入り混ざったコスモスを見るなり、彼女は興奮したように花に駆け寄っていく。行動的な彼女は珍しい。
「コスモスって、秋の桜って書くんだって。」
 長く柔らかい黒髪が花の中で踊る姿を見ながら、その背中に声をかけた。
「1年で2回も自分の名前の花と出会えるって、なんか得だな。」
 振り向いた彼女。本人の記憶が正しければ、名前は桜。春と秋に見られる花はどちらもピンクか白で、笑う彼女にぴったりだと思った。
 くるん、と髪が踊って、腰の高さまであるコスモスに埋もれて、彼女は空を見上げた。
「今日は、――秋晴れになって、良かったですね。」
 朝の自己紹介で、俺の名前は言わなかった。毎日、夕方を過ぎたくらいからまた忘れ始めてしまう個人名に、あまり興味を持てなくなっていた。けれど。
「桜、もしかして、記憶、……」
 俺の目には、彼女の姿しか映らなくなっていた。それくらいに混乱して、それくらいに嬉しくなった。
「いえ、記憶があるわけでは……けど、あなたが”秋”に関係する名前なのは、なんでだろう、なんとなく……」
 記憶が戻ったわけではない。それでも俺は嬉しかった。一欠片だけでも何かを思い出せたのは、それだけで大きな一歩。
「……ん、正解。秋晴あきはる。」
 名前を言わなかった今朝を思い出して、怒りたい気分と、言わなかったからこそ今の進歩を見れたという奇跡がある。
 これからはやっぱり、毎朝名前を教えよう。
 それでいつか、今度は桜の下で、秋を思い出してもらえるようにしよう。



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