零れ落ちた知らない名前

 彼を見つけたのは、会社の医務室だった。
 頭痛持ちでよく薬をもらいにくる私と、サボり癖のある彼。顔をしかめて医務室に行くと、彼はだいたいベッドで眠っていた。


「お仕事、いいんですか?」


 ある日、珍しく目を覚ましていた彼と話をしているうちにそう聞くと、なんでもないような顔で笑って、


「大丈夫。決められたことは全部やってからここにいるから」


 と言った。仕事が早い人なのか、そもそもそんなに仕事を与えられない、仕事が出来ない人なのかは、その時点ではわからなかった。


 パソコンに向かって仕事をしていると、隣の席の女の子がこそこそと話しかけてくる。


「ねえ、医務室にいる人と仲良いって本当?」


 キラキラとした目で言う彼女は、聞くまでもなく彼のことを狙っていた。


「いや……仲良いってほどじゃないよ。よく顔を合わせるから、少し話す程度」
「でもでもっ! 話はするんだよね!?」
「ま、まあ……」
「じゃあさ! 今度連絡先聞いておいてよ! で、教えてよ!」
「あー……聞けたら、ね」


 よろしくね! と、あくまで小声で騒ぐ彼女に、あまり良い気がしなかった。こんな子に取られてたまるか、と考えた頭を、小さく振った。


 雨の日はよく体調を崩す。雨が続く最近は、医務室に通いっぱなし。


「…………おはようございます」
「おー、調子悪そうだなあ」


 朝一で来たのに、医務室には先客がいた。この人は一体いつ仕事をしているんだろう。


「今から、おやすみなさい、ですか?」
「つい昨日徹夜しちまってな」
「そうですか」


 短く答えて、薬を飲む。少し休んでから戻ろうと考えて椅子に座ると、彼は少し私の顔を覗き込んできた。


「最近特に調子悪そうだな。雨だからか?」
「…………そうです」
「あはは、答える気力もねえか」


 首を縦に振ると、そうか、と苦笑いをして彼は布団に潜る。
 時計の音と、エアコンの音。


「桜庭さん」
「へ?」
「一緒に寝る?」


 彼はそう言って、布団を少しめくった。


「なんで私の名前、?」


 添い寝なんかよりもよっぽどそこに驚いて、痛い頭を抱えながら問う。あ、と、彼は少し零した。


「少し気になって、会社の子に聞いたんだよ。それだけ」


 後味が悪そうな顔で言う彼の目が、少し泳ぐ。


「あのっ、」


 椅子から立ち上がって声を上げると、彼が少し驚いた顔をする。


「あなたのお名前を、聞いてもいいですか……?」


 だんだんと小さくなる声に、彼の笑いがだんだん大きくなっていく。


「そこは、連絡先教えてください! とかじゃねーのか」
「あっ、そういえば同じ部署の女の子が、連絡先聞きたがってました」


 さっき入ったばかりの布団から出てきた彼は、携帯を片手に少し意地悪な顔をする。


「他の子と仲良く連絡取りあっててもいいのか」


 付き合ってもいない、そもそもお互い名乗りあってもいない仲でそんなことを言うのはおかしいけれど、条件反射で答えてしまう。


「い、嫌です……」


 すると彼は、口元を隠して笑って、携帯を差し出してくる。


「高橋徹。よろしく」


 彼の手から差し出されたその名前は、しっかりと私の中に取り込んで。
 誰にも教えない、と、心の中にしまった。